才ノ神峠
才ノ神峠を調べてみます。
才ノ神峠(兵庫側)のデータ
場所:兵庫県猪名川町 / 三草山山頂付近 全長:3.34 km 平均勾配:8%(ただし「平均斜度詐欺」と評されています) 最高斜度:23%
「平均斜度詐欺」の正体
前半2kmは集落内の穏やかな道。2km過ぎの林道に入ると突如として激変し、路面が荒れ始め道幅も狭まり、勾配がどんどん増してくる。20%越えの右コーナーを皮切りに、15〜23%の激坂が延々600mに渡り続く。
「枯葉満載」についても答えが出ました。道幅は狭めで荒れ気味、落ち葉や落石などの堆積物もありガードレールもないとのことで、季節を問わず常に堆積しているタイプの林道のようです。6月でも枯葉だらけというのは、木漏れ日が当たりにくい北向き斜面か、単純に清掃が全く入らない廃れた林道ということでしょう。
ランドマークとして廃トラックがあり、ここで写真を撮る人は多いとのこと。ゴール付近の道標は能勢町最古のもので、江戸時代前期終わり、350年前に作られたとのことです。
カブのでローで精一杯というのは、最大23%にロースピードのカブで突っ込んだということですね。ロードバイク向けサイトでも「初心者お断り」級に分類されている峠を、わびさび度5と称してカブで笑いながら越えてくる、という絵が見えます。
歴史的な背景が想像以上でした 才の神峠は7本もの道が交叉する峠道で、能勢町最古の道標がある。その道標には「有馬」「銀山」「いけ田」などと刻まれており、名湯・鉱山・酒造りへと通う人々の要衝の峠道であったといわれている。 江戸時代、篠山のデカンショ節に出てくる、灘の酒造りに半年出稼ぎする杜氏もこの道を辿ったという。歴史上の有名人や軍隊がこの道を行き来し、戦場になったこともしばしばあった。
そして面白いのがここ。歴史上の最重要道路であったにもかかわらず、運良く(奇跡的に)寂れたことで現状が冷凍保存されて、ひっそり、しかし綺麗に残っている。
つまり、有馬温泉・多田銀山・池田の酒蔵を結ぶ江戸時代の幹線ルートの交差点が、近代化の波から取り残されて、今もほぼそのままの姿で残っているということです。ゴール地点にある江戸時代前期の道標(350年前)も、その名残。
カブのローで喘ぎながら越えた峠が、実は灘の杜氏や多田銀山の銅を運ぶ人足が行き来した古道の要衝だったというのは、なかなか渋い話だと思いました。
少し北にある天王峠(すねこすり峠)についても詳しく調べてみます
天王峠(てんのうとうげ)基本データ
大阪府豊能郡能勢町内にある峠。峠は一般的に兵庫県(丹波篠山市福住)との境界と認識されているが、峠の地点は大阪府に属している。国道173号の天王トンネルが貫く。加古川水系の水無川と武庫川水系の羽束川が接し、両水系の分水界をなす。標高490m。
「すねこすり」の由来
天王峠は木の根や岩が多い急坂で、旅人の足を悩ませたことから「脚木摺峠(すねこすりとうげ)」「摺脛峠」などとも呼ばれ、屈曲の多さから「七曲峠」とも称された。
1798年刊行の「摂津名所図会」にはその様子が克明に記されています。「一里が間牛馬通ぜず。特に阪路屈曲にして、石荒く木根高くして、往来の者足の踏途を患ふ。これによって脚木摺といふ」と記されている。
妖怪の「すねこすり」(膝下に絡みつく化け物)はこういう道から生まれたネーミングセンスなんでしょうね。
国境論争と「扇子の謀略」
ここが一番面白い話です。天王と福住(丹波国)との間で山論(山の領有権争い)が文禄年間から長く膠着していたが、江戸初期に天王の庄屋が作らせた扇子が解決の糸口になったと伝えられている。扇子には老女が糸をつむぐ絵と「わしが若いときにや天王へ通った 天王大坂七曲がり」という歌が書かれていた。この扇子千本を京都の扇子商に注文しておきながら取りに行かず、処分に困った扇子屋は安値でそれを売り捌いた。七曲がりの峠道が天王のものであるというイメージが扇子とともに広まり、山論は天王側の勝ちとなり、福住へ大きく張り出した領分を得た。
扇子を1000本注文して意図的に放置し、口コミで「天王の峠道」というイメージを世間に刷り込む、という江戸時代の情報工作です。
古民謡の碑に刻まれた歌
峠の近くには地元の郷土史家が私費を投じて建てた「丹州街道古民謡の碑」があり、こう刻まれている——「天王大坂七廻り 身過ぎなりゃこそ一夜おき 越すは丹波のお蔵米 九里に九つ峠を越えて いこか池田の大和屋へ」。池田の大和屋とはかつて栄えた酒造家。唄ったのは丹波の農民たちで、秋の収穫を終えて丹波米を池田に運び売る日銭稼ぎの仕事歌だった。「九里に九つ峠を越えて」は実際に9つの峠を越さなければならなかったという意味だった。
才ノ神峠と天王峠、並べると面白い対比になります。才ノ神が「灘の杜氏や銀山の人足の交差点」なら、天王は「丹波の農民が米を担いで越えた国境の難所」。どちらも現代では辺鄙な林道か旧道ですが、江戸時代は人と物が行き交う幹線でした。